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看護大学の教授との交流があり、連絡を受け講習会などに参加しました。
NPO法人でボランティアをされている方たちと一緒に
介護、障害者、心の悩みなどのお話を聞きました。
心の悩みを抱えた人が克服し、乗り越えてきた課程などの経験を活かし、
少しでも多くの人たちに役に立てたらと言う気持ちが伝わりました。
狭山市にある「子育ておしゃべりライン」では
・子育ての悩みや不安
・夫や家族との関係からくる問題
・病気や心の問題
・地域での人間関係・・・などなど
電話でおしゃべりをし、相談に乗っておられました。
とても優しく穏やかにお話され、相手のお話にうなずき聞き入っておられました。
何度もかけてこられる方や、すっきりされる方など色々です。
各市にこのようなボランティアラインがあるそうです。
私もお話をしているうちに、心穏やかになり言葉ってふしぎだなあ と思いました。
言葉
一つのことばでけんかして 一つのことばで仲直り
一つのことばでおじぎして 一つのことばで泣かされる
一つのことばはそれぞれに 一つの命を持っている
ことばは心のかがみ。 大切に使い、よく聞きましょう。
私の部屋に飾っている標語です。
近くにあるR1はオールナイト営業をしていたようです。
学生に家族づれで待ち時間が出ていました。
ボウリング場が込み合うのはとても嬉しいことなのですが・・・
マナーのなさにがっかりします。
ボウリングのマナー
1)ファールを超えない
2)同時投球葉危険
3)一人にボールは一個
4)アプローチ上で、はしゃがない
5)自分が使用したものは片付ける などなど
ボウリング場だけではなく一般の常識として守りたいマナー
公共の場であることの自覚、相手を思いやること
ルールを守る 、 ごみは片付けるなどなど
世の中変わってきたけど変わってははいけないこともあるんですよね。
私自身もチェックして子供たちにもチェクして・・・・
歳のせいかな?マナー、常識がとても気になります。
JLBCハワイツアーが始まって今年で10回目になります。
5月16日に出発予定だそうです。
第1回のツアーに参加したときを思い出します。
石井プロ、野村プロをはじめ柴村プロ
当時アマチュアだった清水弘子プロ、板倉プロ、小笹プロなど、総勢20余名
1日目はホノルルからマウイにわたりサトウキビ列車に乗ったり、島内観光したり
とても素敵なマウイプリンスに連泊
プライベートビーチで泳いだり、ホウェールズヴィレッジでの買い物などハワイを満喫
マウイからホノルルに帰り自由行動 オプションツアーに参加
あくる日マコ小林さんの「アイエアボウル」にて親善大会
現地の人たちと本当に楽しくボウリングに手作りパーティー
ワイキキビーチ、アラモアナショピングセンター、ゴルフなどなどあっという間の6日間でした。
実は第1回は家族4人での参加
主人はゴルフバック、娘はサーフボード、息子と私はボウリングバック
それはそれは大変な荷物でした。
主人はゴルフ三昧 すばらしい景色の中で悠々と堪能したそうです。
娘は本場サーフィンに感激、(うに)に指されて痛い目もしました。
息子はハナウマ海岸での遊泳に感嘆の声を上げ、ボウリングは間々ならず
私は石井プロ、野村プロの寛大さと気配りに感銘を受けました。
第4回まで私はご一緒することができ感謝しております。
第9回にご一緒させていただいたときは、
テロなどの関係で警備も厳しく色々と規制が弾かれていたのには驚きました。
何回行っても「ハワイ」はすばらしい。 何より私はハワイの気候が体にあっているようで
空港に着くなり元気百倍になります。1年の英気を養えるようです。
ハワイはええなあ~住みたいな~次回は私も参加できますように
第10回ハワイツアー皆さん楽しんできてください。行ってらっしゃい~
34年前の4月、私は高校を卒業してプロテスト受験中でした。
当時男子約2500人女子約500人で最高の受験者数となり、
男女、東西別れてのテストとなりました。
父と二人で井戸満子さんを訪ね「プロボウラーになりたいのです」といったのは11月
菅野光男氏を紹介されボウリングの技術はもちろんのこと、
ドリル、メンテナス、レッスンなどボウリングすべてのことを教えていただきました。
大学受験も希望していた私ですが、アマチュアの全日本選抜大会に出場し、決勝を終えて帰ってくると
受験申し込み期間が終了していた為、受験できず。
「絶対にプロテスト合格してやる」の気持ちでいました。
空港ボウル内にプロショップがあり、真っ白いカウンター、整然と並ぶボウル、シューズ、小物たち
当時には珍しいガラス張りのドリル室
ボールはほとんどがエボナイト製で、作業をするとあたりは真っ黒になりました。
しかし白いカウンター、ガラスはいつもピカピカでした。
何十個ものプラグとゴルフコンペ、ボウリングの賞品作りに追われていました。
菅野氏の、ドリル、メンテナスの作業を手伝いながら技術を盗み勉強し
1日20~30ゲームを投球、ショップの清掃、商品管理、販売など毎日忙しく
日々の経つのが早いこと。
高校を卒業してから毎日堺から伊丹まで通いました。
菅野氏は何も判らない私を親切丁寧に、また厳しく根気良く教えてくださいました。
3月から始まったプロテストには必ず付き添ってくださいました。
お陰でプロテストは「一発合格」o(*^O^*)O
あれから34年 心から感謝しております。
今もボウル阪神にあるショップに菅野氏を訪ねて勉強させていただいています。
須田プロに対する気持ちは特別なものがあり、今でもこの記事を書くとなると
胸が熱くなります。
須田プロは、がんに侵され10年間病と闘いながらも
ボウリング界の発展に力を尽くされた方でJLBCの初代代表、JPBAの副会長、などなど
皆さん良く知っておられると思います。
私はボウリングの女王としてだけではなく
人として、母として、先輩としての須田開代子プロが大好きです。
大阪にこられるときはよく連絡を下さり、車でお迎えに行きました。
いつもお忙しく、お疲れの様子でした。
本日のスケジュールの打ち合わせが済むと、ボウリング場につくまでのひとときを
プロボウラーではなく、一児の母として様々なお話をしてくださいました。
息子さんと私の娘は一つ違いなので良く話が弾みました。
須田プロは一人息子の学校の事や食事の事、しつけ等、日々の仕事で構ってあげられないことを嘆き
嬉しかった事、腹が立った事、息子が優しくしてくれたこと等の話を良く聞かせてくださいました。
とても素敵な「お母さん」のお話でした。
私の息子が生まれた時もとても喜んでくださり、須田プロは私に必需品をプレゼントしてくださいました。
『子供は宝物。あなたは家庭を大切にしなさい』と良く言っておられました。
阪神大震災のときも、震災にあわれたボウリング場の従業員、JLBCの会員の皆様に
元気になっていただかなくてはと東京から水などの救援物資を持ってこられました。
そして私も共に『皆様の笑顔を取り戻そう』とボウリングチャリティーを開催、
チャリティーは大成功でボウリングを通して被災者の方たちに笑顔がもどりました。
その年11月 享年57歳で須田開代子プロは亡くなられましたが、
今も多くの人々の心の中に生きつづけています。
お元気だった20年間、大変お世話になり、人として母として
おおくの事を教えて下さったことを今でも忘れることなく、
これからも日々精進していきたいと思っております。
身体がだるくなります。・・・なぜ?
私の身体には150針のあとがあります。
小学校5年生のときに魚の目が両方の足の裏にでき摘出しました。
そして1966年4月左股関節骨きり手術
72年7月 交通事故による左ひざ
79年4月 長女出産 帝王切開
82年7月 虫垂炎
90年5月 長男出産 帝王切開
91年10月 交通事故右足靭帯損傷
11月 両手首手根幹症候群
92年2月 急性劇症肝炎 手術は免れました。
94年7月 子宮筋腫
01年7月 右股関節人工骨置換手術
03年8月 左手首骨折
04年10月 右足小指骨折 以上入退院を繰り替えしております。
合計150針身体に傷跡があります。
全身麻酔の後遺症からか、お天気の悪くなる前には身体が教えてくれるのです。
嬉しいやら悲しいやら・・・・・
病院は嫌いだけれど、たくさんの出会いがあり、色々な体験が出来ました。
痛みを知り、病気や怪我の予防を学び、人の優しさに触れることが出来ました。
今 私はとても元気になりました。
家族のありがたさに感謝しています。
人として、母として、一応妻として、そしてプロボウラーとして
私の周りにいてくださる全ての人々のお陰だと感謝の気持ちでいっぱいです。
息子の修学旅行用のパスポートを取りに・・・2回目です。
1999年に1回目のパスポート・・・小学3年生の時、とても可愛い写真 (≧∇≦)
第1回JLBCハワイツアーに参加する為でした。
家族4人でハワイに行きました。
石井利枝プロ、野村美枝子プロがハワイオープン大会を夢見て・・・
第1回JLBCプリンスカップハワイツアー アマチュアボウラーと一緒に。
プリンスホテル、マウイとワイキキに泊まり7日間の旅行
私と息子はボウリング,主人はゴルフ、娘はサーフィン
ハワイはいいなあ(o^∇^o)
毎年6月ごろにハワイツアーはあります。
過去5回参加させていただきました。
次回からシリーズでそのときの面白かった、楽しかった話を書いていきます。
お楽しみに!!
カメハメハ大王様ですヽ(´エ `* )ノ
私は小学校は陸上と卓球をしていました。
中学校に入学する前に足の痛みを感じ整形外科に行った所、変形性股関節症と診断されました。
40年前の医学はまだまだ進歩していないのですが、
とてもすばらしい股関節専門の先生と出会いがあり、骨きり手術を受けました。
当時は三ヶ月間80キロのギプスをつけた後、リハビリに約三ヶ月かかりました。
両方するといわれましたが、我慢できなくて、足の筋肉をつける約束をしました。
激しい運動はよくないが、運動をして筋肉はつける。太らないように・・
色々と制約がありましたが、中学の担任の先生のお陰で、テニスをすることとなりました。
1年の春休みから入部したのでクラブ内でのブーイングはひどいものでした。
お陰で今の《いじめ》のようなものに会いましたがそれはいい経験になりました。
また大の親友が出来ました。『捨てる神あらば拾う神アリ』かな?
クラブは大阪府内でたくさんの優勝者をだす強いクラブでした。
負けん気の強い私も頑張り近畿大会まで出場できました。
しかし足は痛みを感じ高校に行ってテニスを出来なくなりました。
そんなときに家族、親戚がしていたボウリングに取り付かれたのです。
3年間アマチュアとして恵まれた環境でボウリングを続けることが出来ました。
ボウリングブームの時代。テレビをつけると『律子さん~』と流れる事仕切り・・・
大学の受験を控えておりましたが、全日本選抜選手権に選ばれて東京へ・・
帰ってくると受験申し込み期限は前日で終わり・・・・情けなやー
ならばプロテスト・・・井戸満子さんにお願いし、菅野氏に付きボウリングの勉強をしました。
その年は、全国2000人の受験者があり、女子は500人
男子11期生、女子は5期生47人の合格者の中に入ることが出来ました。
あれから34年、足の痛みと共にボウリングのお陰で人生楽しく送ることが出来ました。
運動はしてはいけないが、筋肉を落としてはいけない。太ってもいけない。出産もいけない。
ないないづくしで痛みはあるし、ボウリングは勝ちたいし。
主治医と共に色々と相談し、1976年に結婚、70年長女出産、90年長男出産。
いけないことやってきました。その度足の痛みは耐えかねるようになりました。
2001年、8年間の痛みに終止符。
(ボウリングは断念すること)を条件に人工股関節置換手術を受けました。
40年の間に、事故にあったり、副作用等で、身体は150針の傷跡が・・・
しかし今は私を応援してくださる皆様のお陰でボウリングを出来るようになりました。
痛みは痛みを持つ人しか理解できないところが多くあります。
もし痛みや、心の傷のあとがある人、色々と意見の交換していきたいと思います。
是非とも掲示板にお越し下さい。
プロテストは実技1次、東西分かれて4日間毎日、2次東京大阪で4日間
合格ライン通過後講習、筆記試験、面接を経て合格が決まります。
(詳しくは(社)日本プロボウリング協会ホームページを見てください)
思えば34年前 全国男女2000人のプロ志願者の中
女子500人中47名の合格者になりました。
ライセンスno118をいただきました。
当時最年少プロとしてデビュー。新聞や雑誌に多く取り上げていただきました。
ほんこの間のような気がします。あれから34年。
思い出すままに書き込んでいきます。
今年でプロ生活34年目に入ります。
18歳でプロボウラー取得試験に臨みプロドリラー菅野光男氏にボウリングの全てを教えていただき一発合格
約3年間ミツ・菅野プロショップに勤務。
それからフリーとなり色々なセンターに契約させていただきました。
20年間の契約満了を迎えた桜橋ボウルまでレディース教室を専門にしてまいりました。
トーナメントプロも15年・・・結婚生活30年・・・子供が男女一人づつ・・・下が男の子で高校2年生になります。
12歳のときに変形性股関節症と言われ手術を受け2000年に人口股関節の手術を受けボウリング禁止令・・
しかし今は堺のボウラーや応援して下さるボウラーの皆様に励まされリーグにレッスンにと楽しい毎日です。
今元気に過ごせるのはボウリング関係のみなさまと家族のお陰です☆(^^♪
感謝の気持ちをこめて、このブログを書いていきます。よろしくね(^▽^ )