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リベラル関西選手権に梶原プロ、川西プロ、波原プロと御一緒でした。
C-BICは南海高野線千代田駅すぐ側で去年男子の全日本選手権があったボウリング場です。
選手は関西はもとより、福井県、高知、香川県、徳島県から約100余名参加されていました。
C-BIC(元千代田スタジアム)は30年ぐらい前毎週通っていたセンター、
リベラルの皆様も15年前からのお付き合い
足の手術などでしばらくご無沙汰しておりましが、皆さんよく覚えていてくださり
お話の弾むことしきり・・・
「70歳になったけどまだまだまけられへんで~」「足痛いけどボウリングはできるで~」
「息子を紹介するは~」「嫁さんと一緒やねん」などなど
あわやパーフェクトの場面がいくつもあったり、
開会式からお弁当タイム、表彰式まであっという間に過ぎました
老若男女1日たっぷりと楽しんできました。
「気をつけて帰ってや~」、「またお会いしましょう」とそれぞれに帰られていきました。
役員の皆様、ボウリング場の従業員の皆様本当にお疲れ様でした。
沢山の出会い、おしゃべり、共に投げられる楽しさ、喜び、大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。
ドリラーはもとよりボウリングのエキスパートです。
私がプロボウラーとして今あるのは菅野氏のお陰だと思います。
高校生のときに「プロボウラーになるんだ」と決意したとき
ボウリングの全てを教えていただいた方です。
空港ボウルをはじめ3件のプロショップを持ち
レーンメンテナスをされていました。
単身で船に乗ってハワイまでボウリングの修行をされたそうです。
当時日本ではまだまだボウリングが一般化されていない時代。
先駆けてのボウリング武者修行だったそうです。
ボウリングがソウルオリンピックエキビジションなったときより
車にドリルマシンを乗せ全国どこでもドリルができるワークショップを出され
広島でアジア大会の時にはナショナルチームの専属ドリラーとして活躍されました。
菅野氏はとても温和で優しく女性には大もてでした。
しかし、いざというときはとても男らしい厳しい方でした。
清潔間にあふれ、ニコニコと笑顔でお仕事をされています。
私が困ったときなど、的確なアドバイスをしてくださる菅野氏
私の恩師菅野光男氏、心から尊敬しております
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
ボウリング教室をして30年余り
特にレディースを多く担当してきました。
昔、女性がボウリングをすることには理解がなく
それどころか、出かけることすら気をつかう時代でした。
ですから教室に来るのは「内緒です」といわれる方が沢山いました。
そんな皆さんにボウリング教室に来られたら精一杯楽しんでいただこうと色々と考えました。
上手くなるのはもちろんのこと、健康に、社交場に
そして、ストレス解消に
始め 服装は買い物ついでの普段着
ジーパンにTシャツなどほとんどがズボン姿
回を重ねるごとに、若返り、服装もミニスカートとなり華やかになっていきます。
お友達も増え、楽しいおしゃべりや食事、行楽とつながります。
他では話せない、嫁姑の話、介護の話、ご主人恋人の話
子育て、教育、病気、介護、死別などなど・・
嬉しかったこと、楽しかったこと、困ったこと、悲しかったこと、つらかったこと
いっぱいお話してくださいます。
色々経験された方々が色々アイデアを出したり、
意見や、経験を話、教えていただきました。
ボウリング教室で学んだことは沢山あります。
ボウリング教室からリーグ、競技会と参加してください。
生涯スポーツボウリング 楽しいですよ。
健康と、若さ、友愛、美しさを手に入れることができると思います。
83歳のご夫婦が心中されたとテレビのニュースがありました。
今日のお昼のドラマでも介護問題のテーマでした。
私も25年前主人の母が入院。父が「がん」で入院。
そのとき、娘は2歳。
背中におんぶして病院を行ったりきたり
仕事と母の店の手伝い、家事、育児と泣きたいほどでした。
また15年前主人の父、私の父とあいついで入院し、1年ほどで亡くなりました。
今度は息子が2歳。
中学生の娘、主人も協力してくれて事なきを得る事ができました。
私自身も入退院の経験があるので、介護する側される側、気持ちがよくわかります。
される側は不安と不満にストレスが溜まり
する側は時間のなさと、戸惑い、疲労にとストレスが溜まります。
ありがとう ごめんね 大丈夫
どちらのときも私は思うのです。この三つの言葉を大切に!!
私もこれから年老いて子供たちにお世話になることでしょう。
【かわいいおばあさん】になれますよう努力したいと思います。
本日4月14日ご逝去されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
去年より【がん】の手術をされ入院中とお聞きしておりましたが
とても残念なことです。
ボウリング発展の為にご尽力を尽くされ、全国を飛びまわれていたのを思い出します。
トーナメント会場では必ずお顔を拝見できましたのに・・・・
伊藤清久様 粕谷三郎様 須田開代子様など
プロになって大変お世話になった方々がお亡くなりになりました。
ボウリングを愛され、ボウリング発展を願われた方々が天国に召されていかれるのは
とてもさびしいものです。
ハードスケジュールをこなし、お体もお疲れだったことでしょう。
どうかごゆっくりお休み下さい。
私は 微力ではありますがボウリングを愛する一人として
これからも沢山の人にボウリングの素敵なところ伝えて行きたいと思います。
34年前の4月、私は高校を卒業してプロテスト受験中でした。
当時男子約2500人女子約500人で最高の受験者数となり、
男女、東西別れてのテストとなりました。
父と二人で井戸満子さんを訪ね「プロボウラーになりたいのです」といったのは11月
菅野光男氏を紹介されボウリングの技術はもちろんのこと、
ドリル、メンテナス、レッスンなどボウリングすべてのことを教えていただきました。
大学受験も希望していた私ですが、アマチュアの全日本選抜大会に出場し、決勝を終えて帰ってくると
受験申し込み期間が終了していた為、受験できず。
「絶対にプロテスト合格してやる」の気持ちでいました。
空港ボウル内にプロショップがあり、真っ白いカウンター、整然と並ぶボウル、シューズ、小物たち
当時には珍しいガラス張りのドリル室
ボールはほとんどがエボナイト製で、作業をするとあたりは真っ黒になりました。
しかし白いカウンター、ガラスはいつもピカピカでした。
何十個ものプラグとゴルフコンペ、ボウリングの賞品作りに追われていました。
菅野氏の、ドリル、メンテナスの作業を手伝いながら技術を盗み勉強し
1日20~30ゲームを投球、ショップの清掃、商品管理、販売など毎日忙しく
日々の経つのが早いこと。
高校を卒業してから毎日堺から伊丹まで通いました。
菅野氏は何も判らない私を親切丁寧に、また厳しく根気良く教えてくださいました。
3月から始まったプロテストには必ず付き添ってくださいました。
お陰でプロテストは「一発合格」o(*^O^*)O
あれから34年 心から感謝しております。
今もボウル阪神にあるショップに菅野氏を訪ねて勉強させていただいています。
1969年 女子1期生13名が誕生
(1973年 女子受験者522名中、私 5期生47名誕生)
1980年 WIBCで斉藤志乃ぶプロがアメリカで初優勝
1992年 公認インストラクター85名誕生
1988年 ボウリングが国体正式種目となる
2000年 A級インストラクター31名誕生
JPBAの歩みから歴史を抜粋してみました。
協会創立40年世の中色々と変わっていきました。
テレビをつければボウリングを見られる大ブーム。
オイルショックでボウリング場が閉鎖の悲しい時代
コンピューターの出現でリニュアルされていくボウリングなどなど
ハードの面でどんどん進化していくボウリング(世の中も進化しています)
しかし人の心は置いて気振りのよう
そんなときにプロインストラクターの制度が発足したと思います。
マスター,A,B,C級とクラスがあり、
2000年 A級プロインストラクターとしてライセンスを取得できました。
1992年東京、大阪2会場で5日間のインストラクター講習
私は東京で、大好きな須田プロと夢を語りながら受講できました。
生涯スポーツとして、ライフワークとして満足できるボウリング
一人でも多くの方々にボウリングを知っていただこうとプロインストラクターを目指しています。
ボウリングはもちろんの事、健康、育児などこれからも沢山勉強していくつもりです。
家には 『はる』 というトイプードルがいます。
娘が2年前に連れてきたのです。
真っ黒い小さな赤ちゃんでした。
10日ほど自分の部屋で隠して育てているのを発見した時はビックリ!! ヾ(゚ロ゚*)ツ
主人は大の犬嫌い。どうしたものかと・・・・
息子と娘は主人に許しを得る計画を立てました。
私は仕事で出張が多く、主人は消防で一昼夜勤務、娘は不規則勤務、息子は学校
犬を飼うなんてとても無理だと思いました。
しかし子供たちの計画はうまく進み、主人が一番可愛がっている今日この頃。
食事に、散歩、しつけに、散髪、お風呂に下の世話。
人間の赤ちゃんと全く同じです。
『はる』を通じて子供たちに、「子育て」を教えています。
私が教訓にしていることは
「やさしさと素直な心、感謝の気持ちを忘れない」そんな子供になって欲しい
夜、私が『はる』と眠る時、いつも子供たちの事を思い出します。
赤ちゃんのとき、幼稚園、小学校、中学高、
いつの日も楽しく可愛いことばかり かな?
悲しいこと、つらかったこと、腹が立ったとき、悔しかったときなど
子供たちに救われたこと沢山あります。
家族っていいなと思いながら毎日が流れていきます。
真っ白い、可愛い目の小さな『はる』もすっかり家族の一員になりました。
現在二歳。体重は2kgほどで、ポップコーンの箱に入るほどです(≧∇≦)
ちょっとわがままお嬢様。
HPを開設してから早一ヶ月が経ちました。
試行錯誤の上何とかかたちになってきたかしら?
なんて自分がしているようですが私は機械音痴(自慢じゃないでしょ)
PCを購入して5年以上経ちますがほとんど何も出来ないのです。
小学生だった息子に教えていたのにいつの間にか教えられています。
HP開設は前からの夢で、やっと息子が作ってくれました。o(*^O^*)O ウフフ♫
私のことを一番良く知っているのでお気に入りのHPが出来上がったと思います。
いかがでしょうか?
息子は「まだまだ気に入らない」と言っていますが・・・・
これから、思いつくまま頑張って、書き込みます。
どうぞよろしくお願いいたします(o^∇^o)ノ
須田プロに対する気持ちは特別なものがあり、今でもこの記事を書くとなると
胸が熱くなります。
須田プロは、がんに侵され10年間病と闘いながらも
ボウリング界の発展に力を尽くされた方でJLBCの初代代表、JPBAの副会長、などなど
皆さん良く知っておられると思います。
私はボウリングの女王としてだけではなく
人として、母として、先輩としての須田開代子プロが大好きです。
大阪にこられるときはよく連絡を下さり、車でお迎えに行きました。
いつもお忙しく、お疲れの様子でした。
本日のスケジュールの打ち合わせが済むと、ボウリング場につくまでのひとときを
プロボウラーではなく、一児の母として様々なお話をしてくださいました。
息子さんと私の娘は一つ違いなので良く話が弾みました。
須田プロは一人息子の学校の事や食事の事、しつけ等、日々の仕事で構ってあげられないことを嘆き
嬉しかった事、腹が立った事、息子が優しくしてくれたこと等の話を良く聞かせてくださいました。
とても素敵な「お母さん」のお話でした。
私の息子が生まれた時もとても喜んでくださり、須田プロは私に必需品をプレゼントしてくださいました。
『子供は宝物。あなたは家庭を大切にしなさい』と良く言っておられました。
阪神大震災のときも、震災にあわれたボウリング場の従業員、JLBCの会員の皆様に
元気になっていただかなくてはと東京から水などの救援物資を持ってこられました。
そして私も共に『皆様の笑顔を取り戻そう』とボウリングチャリティーを開催、
チャリティーは大成功でボウリングを通して被災者の方たちに笑顔がもどりました。
その年11月 享年57歳で須田開代子プロは亡くなられましたが、
今も多くの人々の心の中に生きつづけています。
お元気だった20年間、大変お世話になり、人として母として
おおくの事を教えて下さったことを今でも忘れることなく、
これからも日々精進していきたいと思っております。